旧出津救助院について
授産場の文化財としての価値と保存
概要
『外海の人々を貧しい生活から救いたい』
旧出津救助院(きゅうしつきゅうじょいん)は、フランス人マルコ・マリー・ド・ロ神父の、カトリック信仰を礎とした深い人類愛によって設立された授産活動の場で、現在の長崎市西出津町出津文化村エリアに位置しています。
旧出津救助院(きゅうしつきゅうじょいん)は、フランス人マルコ・マリー・ド・ロ神父の、カトリック信仰を礎とした深い人類愛によって設立された授産活動の場で、現在の長崎市西出津町出津文化村エリアに位置しています。
当施設は以下の複数の資産で構成されており保存・修復を経ながら現在に至ります。
■旧出津救助院施設
・授産場(国指定重要文化財)
・ド・ロ塀(国指定重要文化財)
・マカロニ工場(国指定重要文化財)
・製粉工場(長崎県指定史跡 ド・ロ神父遺跡)
・薬局(長崎県指定史跡 ド・ロ神父遺跡)
旧出津救助院の向かいド・ロ様記念館(国指定重要文化財)は、旧鰯網工場を改装して建設されました。(長崎市管理運営)
※ド・ロ様記念館への入館料は別途必要です。詳しくは市のホームページをご覧ください。
数十mほど登った先には、ド・ロ神父が建てた「出津教会堂(しつきょうかいどう)」があります。
※出津教会堂の見学は、あらかじめ長崎の教会群インフォメーションセンターへ事前連絡が必要です。
詳しくは『長崎の教会群インフォメーションセンター』ホームページをご参照ください。
授産場
旧出津救助院の施設群の中心となる授産場では、綿織物の製糸から製織、染色、そうめんやパンの製造、醤油等の醸造が行われていました。桁行約19.4m、梁間約5.2mの二階建てで、洋風技術との折衷的工法と、「ド・ロ塀」のように 外海地区固有として定着した技法が用いられている建物は、明治初期における西欧建築技術受容の発端を知る上で重要です。
また当時、建築工事そのものが授産事業でもあり、西洋の施設・近代的な福祉思想を持ち込んでのド・ロ神父の活動は、近代日本の文明開化を寒村から行った輝かしい業績の一つと言えます。
授産場1階内部では、旧出津救助院の関連歴史年表や、当時実際に利用されていた調度品や器具などを見る事ができます。
また当時、建築工事そのものが授産事業でもあり、西洋の施設・近代的な福祉思想を持ち込んでのド・ロ神父の活動は、近代日本の文明開化を寒村から行った輝かしい業績の一つと言えます。
授産場1階内部では、旧出津救助院の関連歴史年表や、当時実際に利用されていた調度品や器具などを見る事ができます。
100年以上経った今も健在する「ド・ロ塀」
当時、日本で石積みの接合剤として使用されていたアマカワが雨に打たれるのに弱 いのを見たド・ロ神父は、代わりに赤土を水に溶かして石灰と砂をこね合わせたもので接合し、地元の自然石を不規則に積み重ねた丈夫な「ド・ロ塀」を考案したと言われ、授産場の基礎や壁体の大部分に使用しました。
マカロニ工場
マカロニ工場は、内部を東西2部屋に仕切り、西室には中2階を設け、東室には東側壁近くに鉄製かまどが設置されていました。当時は「マカロニ部屋」とか、蔵のような家なので「クライエ」と呼ばれていたようです。
資料によると、大きな作業台が置かれた部屋の中には、西洋から取り寄せたマカロニやパスタの製造機などが設置されていたと思われ、現在でも西洋の土間には機器を固定したボルト跡が残っており、当時、マカロニやパスタ等を製造していた事が想像できます。
ここで作ったマカロニは当時長崎にいる外国人に売られていました。
資料によると、大きな作業台が置かれた部屋の中には、西洋から取り寄せたマカロニやパスタの製造機などが設置されていたと思われ、現在でも西洋の土間には機器を固定したボルト跡が残っており、当時、マカロニやパスタ等を製造していた事が想像できます。
ここで作ったマカロニは当時長崎にいる外国人に売られていました。
施設の構成 <県指定史跡 ド・ロ神父遺跡>
旧製粉工場
農業にも通じていたド・ロ神父は、そうめんなどの材料になる小麦の種子をフランスから取り寄せて栽培し、水車小屋を使って製粉しました。落花生油をつかった独特の製法で油となる落花生も地元の畑で栽培しました。こうしてつくられたそうめんは、「ド・ロさまソーメン」の名で今も親しまれています。
現在、旧製粉工業の1Fでは、食の体験活動の施設として利用、2Fでは当施設ゆかりの品々を販売しています。
薬局
外海地区に腸チフスが蔓延し、当時の医療技術では恢復が困難な状況にありまし た。そこでド・ロ神父は、診療所や薬局の必要性を痛感し、地元のフランスやイギリスから医療器具や薬品を取り寄せ、医師を雇い、診療を行いました。現在薬 局は旧出津救助院の入館入口受付施設となっています。